大変遅くなりましたが、特別寄稿へのコメントとして…。

ルールは社会においてその時点における仮の決定という面があると思います。後半に書かれていますが、ルールはいつでも動くし、ルールを守らなかったのかそれともルールを制定した時点で成り立っていた条件均衡が、今この瞬間に当てはまらなくなったのか。そうであれば、それを認識した者が、そこでゲーム中断を申告する必要があると思います。

もうゲームはやれない。

ルールの中で行えない状況が生まれた時点で、時代が変化しルールの変更が求められていると考えます。ということで、ゲームをやめるのが良いと思います。そこに美を持ち込む必要があるかはわかりません。それが「美」による脅迫になる可能性もあります。でもちっぽけな脅迫です。負け惜しみと言われるのが関の山でしょうか。

もしくは、変動するルールに対抗して常にインプロヴァイズするか。そのインプロヴァイズを美とするならばそれもありでしょうか。でも、インプロヴァイズは能力や鍛錬が必要です。

もうゲームはやれない。

ゲームを放棄しているようですが、先にルールを放棄したのは相手でしょう。もしくは甘んじて負けを受け入れ、己の美を主張するか、誰かに代弁させるか…。芸能的演出欲求があるならばそれもひとつの案かもしれません。

ルールが変わったら、場所を移動する。それは逃げに見えますが、ルールを替えたやつが先に逃げたわけですから。

人間が同じ場所にいるには、ルールを守り合う必要があるという認識は、今の世の中ではほとんど無くなっているのかもしれません。そういう意味では、その認識を確認するために場を降りるということで良いのではないでしょうか。ルール外でも勝てる見込みがあれば別でしょうけれど。

もう同じ土俵には立てない。同じ土俵では無くなった。

ということを表明してはどうでしょう。
(m01)

こんなに久しぶりの投稿になってなんとも恐縮なことではございます。2年くらい放置しているような気がしていましたが、特別寄稿から5ヶ月でした…。その挙句ちょっといったんスルーしつつ、時事ネタといいますが、絶賛お祝いエントリーをば。

◇      ◇      ◇      ◇

「もっとドラムがうまくなる〜7つの最強プログラム〜」からちょうど2年経とうとしているのですね。この本にも登場してくれたピエールこと中野正敏君の教則作品「Chaotic Vibes Drumming」が完成し発売されました!パチパチパチ!中野君、そしてSさん編集ご苦労様でした!

Chaotic Vibes Drumming[入門編]
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Chaotic Vibes Drumming[実践編]
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教則本とDVDによる「入門編」とDVDの「実践編」、さっそく多くの人の手にわたり評価も得ているようですね。まずは教則本を読ませて頂きましたが、またしてもS氏編集による良作品が実現したなと思っています。そして中野が何年も前から言っていた「教則をやりたい」というものが、実によく伝わって来ましたし、今まであまりなかった、そして自分にはできない領域を達成してることに敬意を感じます。

対談に呼んでもらったことや著作紹介ももちろん嬉しいことなんですが、本を読んでみてその存在自体にいろいろな感慨があります。個人的なことは自分の日記に書いてるんですけれども、このブログで言いたいこととしては、伝えることを諦めてはいけないな、ということですね。自分はもうここ数年、伝えるということに対して絶望感みたいなものを感じずにはいられないことが多かったと思っています。もちろんなんとかしようとはしてきていますが、一つ前のS氏の特別寄稿エントリーなんかもある意味そうだと思うんですが、どうして伝わらないのか、ということに向きあい過ぎると疲弊するばかりなのかもしれません。そして、こういう作品が個人作品の中で実現しているというのは、今まで多くの教則本やドラムマガジンなどの雑誌で構築されてつつもまとまりが得られにくかったところが、またひとつ次の段階に向かうような気がします。

それにしても中野は本当に人をよく見ていて、その観察眼と、それを言葉にして他者を賛美することでの自らのモチベーションを上げているという、実に見上げた野郎です(笑)。この作品の良いところのひとつは、過去から現在までのバックボーンが見えることですね。ドラマーの層が厚くなるということでもありますが、ドラマーも世代によって変遷してきた、そしてそれが続いているんだという歴史みたいなものがみなの思考の中に直感的にイメージされれば、日本ももっと文化的に一般生活や遊び、教養やレクリエーションやコミュニケーションとしてもドラムや打楽器全般が根をおろすのではないかと感じます。

そして私などは、今までの制作の中でどうやって今の若者にわかりやすくするか、どんな企画がいいのかなんてことを多少考えていたつもりですが、そんなことはもう的外れであって全然役不足でもあるし役にも立っておらず、やはりまっとうに史実資料的なものをしっかりまとめて伝えることに集中すべきだなと。

調子に乗ってちょっと自分のことを書きますが、中野が対談で言ってくれている昔の記事を読んでみて、オールラウンドリズムセミナーからフィールロジックまでまとめてpdfにでもして自分のサイトで公開とかしたくなりました。誌面には著作権があるのでできないでしょうけど、そこはそれ、蛇の道は蛇ということで。

◇      ◇      ◇      ◇

この作品には、営業メディア的出版社から出てこない、企画や予算や営業力を超えたエネルギーが見え隠れします。それはやはりドラムに対する気持ちであり、作品にチカラを与えるのは人の想いなんだということに希望を感じさせられ、私ももう少し生きてみたくなりましたw これってある意味自分が思うジョブズ的な、オリジナルなものでに自立したものが持つ強みっていうものに少し近いようにも思っています。

S氏と中野の今後の作品作りにも期待!そして自分も頑張る!と。

つい先日、内輪で「ルールを守ろうとする人間が、ルールを守らない人間をいかに御するか?」というテーマで大いに語り合った。自分としては、このテーマの根幹は「いかに御するか」ではなく、「ルールを守るとは、いったいどういうことなのか?」の方にあると思っている。「御する」方法は、さまざまな条件によっても異なる、ある種のテクニカル・マターだが、「ルールを守るか否か?」は、テクニカル・マターではなく、その人の人生そのもの、つまり「生き方」に関わる問題となる。

ではルールとは何か? スポーツにおいてはどうか。そのルールの下で、選手は平等である。選手達は、有名であろうがなかろうが、実績があろうがなかろうが、そのルールの下で誰もが平等だ。さらに、主張することができる権利も平等だということになる。そしてスポーツの場合、それを守らないという選択肢はない。なぜなら、ルールを守らないならそのスポーツをやる意味がないからだ。守る気がない人はそもそもフィールドに立たないし、そのための準備もしない。

では交通ルールとは何か? 現状のルールの下で運転者や歩行者は誰もが平等だろうか。ここで考えるべきは、「法律として明文化されているルール」の下では、同じ乗り物に乗る人は平等だと言えるだろう。では平等でないのは……?

まず1つは「車(個々)の能力による差」がある。例えば、排気量が違えば収める税金の額が違う。
もう1つは、「法律としてのルールではなく、習慣化されたルールの下」では平等でないということだ。なぜなら、習慣化されるものはその人によって異なり、ルール自体(もしくは「ルールだと思っているもの」)が相対化されてしまうからだ。「日常生活におけるルール」とは、この「相対化されたルール」のことを指す。すなわち、そのルールに意味を認めているか否か、が大きな問題となり、意味を認めている者同士であれば、容易に同意を形成できるが、意味を認めていない者同士は、何らかの大きな力が働かなければ、同意に至ることができないだろう。

ここで言うルール、それは、何かを制限するという類いのものだけではなく、そこに意味や美しさを見出すことができる「美徳」という要素も含まれていると考えるのが普通だろう。「電車内で携帯電話を使って大声で話す」という事例を考察えると、「日常生活におけるルール」の中には、「大声で話すべきではない」という「制限/抑制する面」と、「電車内での行住坐臥は、いわば密室といえる小さな空間の中で他人の迷惑とならないことを美徳とする」という「美の面」が表裏一体となっているはずだ。そしてむしろルールというものは、後者の美の側面から出てくるものと言えるのではないか。

しかし、ここを覆すのは簡単なのである。「美の側面」を否定すればいい。つまり「それは美ではない」と言えばいいのだ。それは即、その表裏一体をなす表側「抑制する面」をも否定することができる。そうすることは美しいことではないので、制限される必要もない。

この時、つまり、「それは美しくない」という人に、それが「美しい」ということを、我々は伝えることができるのだろうか? そしてそもそも、それを伝える権利を、我々は持っているのだろうか?

1つの懸念が過る。それはルールが「美」から派生するものではなく、実は「抑制面」が主で、それが美であるということ後付けしているものの場合だ。そこには「ルールの作成者」がいる。ここ(ルールが及ぶ人的範囲)では〜しないようにしよう、というルールが、人的範囲の最大幸福(=平等でもよい)のためでない場合がある。抑制することが主な目的のルール。「ルールは破るためにある」とよく言われる、そのルールの筆頭に挙げられる類いのものだ。最初に懸念と言ったのは、この類いのルールが「美にすり替えられる」ことも多いにあるということだ。「出る杭のないように」という制作者側のルールが、いつの間にか美にすり替わって語られるのはとても危険なことだといえよう。これは「教師と生徒」や「権力を持っている者とそれに従う者」など、主従関係の中で生まれやすい。例えば学校の制服。学生に制服を着せることで減る教師の仕事は多いのではないか。もちろん学生側で減る負担もあるし、それを逆手にとって、実際に制服=ブランド化ももはや定着しているが、それは学生側の「知恵」だと言えよう。近年では、学校側がまたそれを逆手にとって、学校が生徒集めのための「売り」にしている。ほら、学校の「売り」にもなっているほどブランド化した制服は、それを求めて集まる学生達にとっていつの間にか「美」になってしまった。しかし、なぜ全員が同じ服を着なければいけないのか? 「美」となることで、為政者の「目的」にヴェールがかけられて見えなくなる、という「刷り込み」に近いこの手のルールは非常に危険だ。こういうルールは乗り越えられるべきものに違いないが、このルールが美がどうかに関する意見の違いは、世代間を中心に、多々あるだろうと思う。

ここで問題になるのは、「乗り越えるべきだ」という意見は、なぜ成り立つのか?だ。それが美でないことに気づいている人がいる? しかもそこに気づいている人は、「乗り越えるべき」だという、何か特権でも持っているかのようだ。

そう、話は戻った。美であることを伝える権利、それが美でないことを伝える権利(どちらも一緒)は、誰が持ちうるのだろうか? それは普く、誰にでもその権利があるということが、この現代社会の基盤となっている。過去に、物を言う権利もなかった時代を“乗り越え”て、誰もが等しく何が美であるかを主張できる。「相対的な美」を、だが……。

ならば我々は現代というこの時代に「絶対的な美=価値」を求めるべきなのか? いや、そうではないだろう。ただ、戦後、抑圧された過去の清算と同時に権利主張=「物言う我」を獲得した一方で、我々は、その表裏一体に存在した「(ルールが及ぶ人的範囲内で)習慣化された美」をも、一気に(物も言えない抑圧された過去と共に)清算してしまったのではないか? これまで私が使ってきた「ルール」という言葉は「静的」な性格のものに思えるかもしれないが、本来ルールとは、もっと人と人との意見の多様性の中でぶつかりあり収斂されて、明文化されないまでも習慣化し、伝播・継承されていく、もっとダイナミックなもの、非常に文化交流的なものだ。連綿と続いてきた膨大な人間の営みの中で育まれ、その上に自分も立っている「文化」と、「自分の美」を、我々は、いつしか切り離すようになってしまい、同じ言語ゲームを繰り広げるための「共通の基盤」をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。その共通の基盤こそ、スポーツにおけるルールのようなものなのではないか。そのルールに従わなければ、この言語ゲーム=人生ゲームに参加する意味がないのだ。なのに、このゲームに参加する「意味」を説く人がいない。

60年代、学生運動で燃え尽き症候群となった世代は、この「意味」をどう自分の中で消化していったのだろうか?

(了)

いや〜!!!!! なんと2010年も早くも残るところあと1日!!!!! ひとつ前の自分の投稿に習えば、あと1/365を残し、1年を4/4拍子の1小節とするならば、およそ1拍90連符くらいの残りというところでしょうか。なんという放置!

10ヵ月近くも放置して本当に申し訳ありません。12/30付けの自分の日記にも書いたのですが、どうにも赤本で燃え尽きてしまったところに、なんだかんだと仕事がかぶさってきた結果長いスランプのような状況、いやともすればこれが本来の自分なのでしょうけれど。と、言い訳がましく独白してどうする。

さて、行動し思考する主体として個を深めるという前回の編集S氏の内容は、実にリレーのたたき台というよりも、今になってこうして読めば、やはりこれでひとつの答えではないかと思うのですね。あの中にある責任という言葉について、これはいろいろ感じることもあって、それは自分にも他者にもなんですけれど。

1年の締めくくりということも含め、この10ヶ月にあったことを思い返してみると、ツイッターがかなりツールとして大きなポジションになってきたなと思っています。このブログや自分のサイト、mixiでやっていたようなことが、小さなアクションの刻みで発信になっていく、そして他の人もより細かく絡んでくる。これはツイッターをやっている人達の多くが感じる「あれ?なんだか予想と違うおもしろさ」だと思います。

そして、編集Sさんの影響を受けて読み始めたのですが、ジャーナリズムに携わる人達のツイートが実に面白く、ニュースなどの速報性はツイッターのとても強いところだと思います。文章が短いので、皆発言を工夫するし、難しい内容でもとりあえず読みきれる。チャットのようでもあり、発信された情報の収集も、知人との対話もできる。これを開発した人はどこまでこの状況を確信していたのかわかりませんが、実に面白い。

で、このブログを放置していても、実際Think Difficultなメンバーの疎通はツイッターできてしまっていたし、まぁそれは3次元での対話も含めですが、動きは自分の中では止まっていなかったというところがあります。それよりも脳内交流としてはむしろ微動細動しながな加速していたようなところも。自分のサイトも含め、こうしたブログ的なものは多少アクションに労力がいるように感じるようになったのも否めないですね。

そんな中、ツイッターっていうのは老若男女、様々な人達の意見を垣間見ることができる。なんとなく、僕らがただ部屋の中でしゃべっていたことが、通りがかった人達が聞いていたり、また意見を求めることもできるというようなところがあります。そうしてみると、たとえば自分の中で「若者」という代名詞で括ってきた人達も、みなそれぞれに日々の生活に感動を求め、そして音楽に対して自分たちの考えを持っている。無論そこに私は共通の言語が見つけられないということはあるのですが、そんなふうに思いながら「職業観」ていうものを少し考えるようになりました。

たとえばドラムマガジンは、なぜあのように難しいと評されるのか。中学生や高校生が気楽に読める物がない…というようなことはもう何年も言われてきましたが、僕らの世代がドラマーの何に憧れているかというと、その仕事っぷりじゃないかなと思うのです。まぁそれは私だけかもしれませんが。だから、テレビに出たりCDが売れている人達っていうよりも、音楽に対してドラムに対して認めるべきものを持っているドラマー→時代を生んだドラマー→職業ドラマーというようなものにフォーカスを当てやすいというか。スティーヴ・ガッドがなぜ今になっても取り上げられ、スティーヴ・ジョーダンが、ポンタさんがとなる背景には、職業観や生き様を見ようとするドラマー気質があるようにも思います。これはある意味ドラマー特有かもしれず、ドラムという楽器をやっていると、そういう人格が増幅されるのかもしれません(笑)

このところの若い人達は「職業観の呪縛」が薄らいだ中で成長しているように思います。古くは終身雇用の崩壊であるとか、職業や仕事というものの中での社会の歪みやハラスメントもあるといえばあるでしょうから、そういったものを取り除こうとした結果なのかもしれません。そして職業観が無くなってしまうと、特に音楽の分野などでは、なんのために自分を高めるのか、ということが希薄になるのかもしれません。

職業観が無いのだったら、職業訓練校である専門学校は何をして良いのか。大学もただの暇つぶしに拍車がかかってしまうのではないか。しかし職業観を持たせるには、もう社会が自由すぎるのかもしれない。

まぁそれでもいいのかなとは思います。たとえば自分が「音楽はこうでなければならない」と言い過ぎれば、それは相撲の世界みたいな凝り固まりになるかもしれない。まぁ実際自分が気にするのは音楽として出来が良いかどうかだけなんですけども。また、若い人達も、別段どうでも良いとか社会に対する不満が爆発ということでもないわけですが、なにかがおかしいなと感じはしつつも意外に今の社会にそれほど文句も言わずに結構マジメで聞き分けが良いという印象もあります。

職業観が支えてきたもの、それがなんであるかがわかればわかるほど愕然としてしまうところもあるのですが、それはまた自分がそれが当たり前の時代に生きたからだけなのかもしれません。まぁ若者の卒業後の動きを見れば、結局は「言う事聞かないと金もらえない」というところでの「服従というモード」はあるようで、それが故に、仕事を成し遂げる=クオリティを知るということだけが無くなっていき、雇用関係は結局たいして変わっていないというようにも思ってみたり…。

ということで、そんなことをうっすら考えてみて、どうやら違う方向で自分も力を出さないとこりゃ意味が無いかも、というところで今年はどうやら終わってしまいそうです。

来年もどうぞよろしくお願いします!

(笑)

オヤジM

うわぁ……今回のお題は、少し考えてみても何も出てこないですねぇ……。とはいえ、まず考えの端緒だけでもと思い、よく世間で言われていることを取り出してみようと。そして、思いつくままに、顧みも推敲もせずに、しかも自分のことは完全に棚に上げて、ずらずらと並べて挙げてみます。Think Difficult!

◎主体的かどうか?

これは、体力が漲ってくることの必要条件でも十分条件でもありませんが、体力という、まさに“エナジー”の部分の源にあるものの1つであるとは思います。それも精神論なのかなぁ~? しかし、主体的であるがゆえにカラ回りすることもあったり、主体的であるがゆえに冷静な状況判断を損なうこともあります(一般論ではなく、経験談です)。で、世の中には、特にマスゴミの得意技ですが、マスゴミ自身が、その“冷静な状況判断”の視点者であるように振る舞ってますよね。その視点だって、まったく定まっていないし、そこに視点を定めた理由すらない場合も多々ある。でも、そのマスゴミという虚像の影響もあってか、みんな“冷静な状況判断をする主体”にならなきゃいけないかのような妄想の中で暮らしているのかもしれない(←要出典)。つまり、「私はこれが好きだ」と言えない状況。そんな状況はホントにあるのでしょうか(笑)? いわゆる“右へ習え”、“出る杭は打たれる”的な風潮は今でも脈々と続いており、“個”というものの在り方が全然深められていないという想いは深くあります。“個”が、“個”と、真っ向から対峙することができない。そういう人間関係の中で、「僕はコレが好きです。なぜなら~」までを、自分自身のこととして語ることがとても希薄なのではないかとも思えてきます……。

音楽を聴くこともそうですが、演奏する体力の方にも、この話は当てはまるのかも!?とも思えます。そもそも演奏することに主体的かどうか?=つまり、演奏するモチベーション=“動機”がない。すべて動機がなければいけないのか?といったら、そんなはずはまったくありませんが、その合理性(達成するために目標を設定する)によって、達成しようという欲求は働きますよね。もう10年前にもなりますが、若手のバンドにいっぱいインタビューをしましたが、「楽しいからやってる」と発言した人(ドラム限らず全パートで)が結構いました。もちろん、「楽しい」「だから」「演奏してる」、って立派な動機ですよね。でも、裏を返せば、楽しくなくなったら辞めるの?ってこと。実際、それで僕が取材をしたバンドが、今、いくつ残っているか。もちろんミュージシャンとしては活動してるのかもしれませんが……。

ドラムを始めたことが“主体的であったかどうか”を分析することでMさんの問いに答えられるわけではありませんが、まず主体的であったなら、そこをドラムを続けたり音楽が好きであることの拠り所の1つにはしますよね。後づけででも。

◎昔は良かった、のか?

今、どういう形であれ音楽に献身している人は、昔から音楽が好きだったのだと思いますし、そういう人にとって人生の中で音楽の占める割合は大きかったと容易に想像できます。でもそれは、極端な言い方をすれば、音楽しかなかったのかもしれない。でも、音楽好きな少年が、そっくりそのまま今の時代のタイムスリップしてきたとすると、彼も音楽どころではなくなってしまうかもしれない。そう考えると当然、今の若者と昔の若者を単純比較することはできないし、むしろ、昔は良かったと言う側が、そもそも昔、興味の幅が狭かったのかもしれない。もちろん、今の若者が音楽以外のものに情熱を注いでいることを信じているからこう言うのですが……。

以上、リレーの叩き台(叩かれ役)となるべく、完全に自分を棚に上げて発言しました。それはそれで自分ではないような気もして面白いですが、これこそが、さっきの“主体的”の話とリンクするのであれば、主体的であることには責任が伴うわけですね。その責任から逃れることはとっても楽かもしれない。マスゴミがそれであり、自分もその徒党の一味であったりすることも……ないようには気をつけていますが……。

2010年も早くも1/24を終えてしまいました。1年を4/4拍子の1小節とするならば、6連符1個分過ぎたところでしょうか。

さて、少し話題を変えたいといいますか、最近思うことのひとつに「音楽を聴く体力」とか「演奏する体力」っていうのはどういったものだろうかと。

人間に力が漲るときっていうのは、単純に飯食って寝たときだけではないですよね。まぁそれはフィジカルな基本条件のひとつではあると思いますけれど。どうしても元気が出ない=やる気が起きない、なんてことは誰しも経験することだと思うんですけど、音楽って言うのは嗜好品として捉えれば好き嫌いがあって当然、好きな音楽以外は聴かないということもあるでしょうし、好きな音楽しか演奏しないということも珍しくないとも思います。ただ、最強本に書いたような前提っていうのは、どうにも好きも嫌いもなく、そもそも聴く体力や演奏する体力がない人が多いようにも感じます。

では、その体力が漲ってくる条件っていうのはなんだろうと。もっと簡単に言えば、人はどうするとドラムや音楽が好きになるのか。そして自分の目の前に見えている「やるべき事」をどうやって好きになったり、やるべき理由を見つけて没頭していくのかと。

かくいう自分も、音楽をやる体力の変化ってのはいつも感じているんです。ある意味、その体力を落とすものは何かっていうことでもあるのかな…。

明けましておめでとうございます! 本年も、みなさまどうぞよろしくです。

昨年までを00年代、今年からを10年代と呼ぶのでしょうか?

この“○○年代”の変わり目が音楽シーンの変わり目だったりしますし、この10年代はどうなるでしょうかねぇ。00年代が果たして何だったか?……その解に対する共通感覚はしばらく出てこないかもしれませんが、それにしても、00年代って何だったんでしょうねぇ……。みなさん一緒に考えましょう!

編集S

リレーも続行中ですが、まずは「あけましておめでとうございます!」本年もどうぞよろしくお願いします!

オヤジM

Mさんのエントリから1ヵ月も空けてしまいました。なのに、ここから“確信犯”だったかどうか?を書くのは少し気が引けますので、少し別な角度から書いてみたいと思います。

確信犯なんて言うと作家みたいでカッコいいので、そうなんです!と声を大にして言いたいところですが、実はそんなカッコいいものでも緻密に練ったものでも何でもなく、長い間、みんなに実際会って呑んで話している中で共感した部分だと思っています。表現は違えど、本質の部分では似たようなことを考えていた。ドラムを叩くってこととは? 楽器を選ぶってこととは? ドラムってものは? ことドラムってことに関してはみんな専門家ばかりですが、話をしていると、ドラムなんてことはたいして話に上らない、むしろ、“生き方”が見えてくる人ばかりなんです。で、彼らのドラムのプレイも、ドラム専門店としての姿勢も、書く文章も、生き方に直結している。清々しいまでに実直なのです。とても偉そうな言い方をしましたが、僕は、こんな人達と知り合え、対等に話してもらい、さらに1冊の本を作れたことを、本当に誇りに思っています。むしろ彼らとの共同作業の中で、自分自身として何ができたのかを振り返ると、自分に対して「もっと頑張れよ」と言いたいくらいです。これは次回のための自戒とします。

ん~、内輪を褒めまくってる文章はどん引きされる可能性大なので、ちょっと方向転換。

この本の企画を立てている時に、僕の頭の中を占拠して離れなかった1つの仮説がありました。それは

「イメージしたものしか実現できない」

というものでした。もちろん、心ならずもトントン拍子に事が進むこともあるでしょうし、いくらイメージできたって、なれないものはなれないなんてことは往々にしてある。でも、なりたい自分をイメージすることから始めることで、ある程度ベクトルは定まってくる。“そっち”に向けて出発できる。それは、イメージの中の“あの音”を出すために、どう身体を動かすか?というレベルでも同じなのではないか。

で、企画書レベルでつけた本のタイトルが「イメージから始めよう! Just Like Starting Over」。

これは、Lennon & Yokoのアルバム『Double Fantasy』の1曲目「(Just Like)Starting Over」から引いたわけですが、この表現が、自分の思いとピッタリだったのです。“Start”じゃなくて“Start Over”、つまり、「もう一回やり直そうよ」という言い方。しかも“Just Like”ですから、もう一回やり直すみたいにさ、という感じ。

この曲自体、僕の大好きな曲で、気持ち良く外を闊歩している時に、どこからともなく頭の中から湧き出てきます。軽快な3連のビートで、気持ちの良い爽やかな曲想なので、この曲を結婚披露宴でかけるカップルがいるようですが、「Starting Over=やり直そう」ですから、実は場違いなんですね。

それで何を言いたいかというと、この本を読んだ人には、従来の教則を「もう一回やり直すみたいに、イメージから始めよう!」と言いたかったわけです。いやいや、もちろん今までの教則を否定するわけじゃありません。が、今までの教則本でやってきたことを“イメージ”から見直してみたら、もっと理解が深まるんじゃないかと思ったのです。理解が深まるというのは、訳もわからずやって出来たつもりになっていたことの本質がわかるということ。そういう点で、「やり直す」どころか最初からこの本でドラムを始めて欲しいという意味で、初心者向けという気持ちもあったし、「やり直す」という意味では、それ以外のすべてのドラマーに向けたものでもありました。そもそも、初級、中級、上級なんていう、あまりにも大雑把すぎる分け方自体、いかがなものか。誰目線なのかと言いたくなる。

もう1つは、前回、私Sのエントリでも書いた“英語”の話に関係するもので、英語は“覚える”ものじゃなくて“コミュニケートする”ためのものでしょ?という仮説を敷衍して、音楽や楽器演奏もコミュニケートだ、というもう1つの仮説から入りました。これについては、もうMさんの文章を読んでもらうに限ります。

そしてベース、ギターをも巻き込んだ付録CDを聴いてもらうに限ります。

今、月一で、古田敦也がメインキャストの番組『フルタの方程式』が結構面白いんです、野球好きの僕としては。あんな番組、観たことがない。少し前にも“キャッチャーズ・バイブル”と称して、盗塁やバント処理など、場面場面でのキャッチャーの動き方、考え方などを、とても詳しく説明していました。“野球”しか知らない人間にとっては「キャッチャーはそこまで考えてるんだ」と、フムフムと見入ってしまいました。実に面白い。つい先日も、4人のピッチャー(現役引退選手)が登場し、ミクロな視点で現役時代の投球術を振り返っていました。元中日・今中のあの恐怖のスローカーブの、ボールをリリースする瞬間を超スロー映像で流して、ボールが人さし指と親指の間から“抜ける”ように投げていることを見せたり……。いや、これも何を言いたいかというと、以前、ドラム雑誌を作っている時に、自分はもしかして(野球に喩えると)「ベースボール・マガジン」じゃなくて「キャッチャー・マガジン」を作っているのではないか?と思ったことがありました。個々のパートとしてのテクニックはもちろん必要だし、そのためのトレーニングも絶対に不可欠、でも、それが野球のため、僕の場合、そのドラムのトレーニングもテクニックも、音楽のためであることを伝えていかなければいけないと思ったわけです。キャッチャーだって、そのバント処理の動きは、何人のランナーがどのベースにいて、それらの動きによって変わるわけだし、ひいては、バントする以前に、相手チームの戦術をも含めて、「今がどういう状況か」によって、自分の動きは逐一変わってくる。それはどのパートでも同じ。これは音楽におけるパート相互の“コミュニケーション”と同じなのではないかと。

今まで単行本単位ではほとんど書かれることのなかったこのコミュニケーションについて、『もっとドラムがうまくなる7つの最強プログラム』では、まったく新しい切り口で斬り込んでいます。もちろんMさんが連載「Feel & Logic」などで常日頃、言及されていることではありますが。

少し冗長になりました。

編集S

おおお〜!すごくマジ(=内面露呈とも)な文章が来ましたね!いよいよ核心かとドキドキしながら読みました。おそらくこれを読むすべての人がそう思うのではないかというほどに。

えー。私としては、印象に残っていることは先の書き込みでも書いてはいるわけですが、制作過程においてとなると、これまたいろいろではあります。まぁいまはこうしてのうのうと書いていられますが、あの時期は「一体どこまでいけば終わるのか?」だけでしたね。なんども偽ピークみたいなものもあったりして(笑)

1)八重樫さんと会って話したこと

 ああやってS氏が文章にしてくれると、今になってあぁそうだったのかと思えるのですが、当初は著者S氏というのが前提にあったので「どの辺までつっつくとこの人は腰を上げるんだろうか」と思っていました。いやホント。でも、結局自分の腰が上げたくなかっただけだったりして(笑)
 で、数々の吞み、いや打ち合わせを通してちょっとこんがらがっていた時に、八重樫さんと会って話したんですよね。で、あぁやっぱりこの人に描いてもらうということなんだよなと肌で感じることができたときに、ボンジョ君みたいな話しに自然となっていった感じがありました。当初はふたりの会話っていうのを漫画にしようとしてましたし。でも、それではなんか感触が違うってんで会って話をして。あそこでひとつ膨らんだ。
 おそらくそれは、ライターが軽く打ち合わせして指定された文字数に入れていくというような、なかば流れ作業になりやすいようなものではなくて、この人に漫画を描いてもらうには、ということがやっぱり強烈に出てきたんですよね。それこそあの本じゃないですけど「イメージ」が伝わらないと、いくら形だけ漫画にしようが小説だろうが、写真だろうが意味が無いと。
 八重樫さんと話していると、どういう漫画にするのか、という切り口をしっかり出していかないと会話のページがめくれていってくれなかったので、あぁこの方はやはり漫画を描く人なんだなと思いました。そして今回、本当に良い漫画にしていただきました。実際、あの本は漫画だけ読んでも言いたいことわかってもらえるとすら思います。
 そういえば、僕らはふたりとも、当初漫画のストーリーのつもりであれもこれも書いておきながら、結局それぞれ違う形になって役目を果たすことになりましたね。ああやって扱い方を変えていったのが、最終的にはなにかパズルが解けたようでもありよかったなとも思っています。

2)ラディック

 レコーディングに関してはいろいろ右往左往もありましたね。スケジュール、機材の問題などなど。頭の中で描いていた準備〜テスト〜録音〜補完〜という流れが某氏のスケジュールによって崩れたことで、かなり厳しかったんです。で、どうにもすべて「作り込む」というのと正反対に動いていった。でもそれがよかったと思います。個人的には、フレーズやドラミングについては今年2月に出版された方でやってしまっていたし、この本では音的なアピールはあるべきではないと思っていましたので。
 ただ、あのラディックを叩いたときは気持ち良かったなー。自分的にはすごく叩きにくいセッティングで、ペダルも違和感あるしシンバルは期待と違った方向に揺れてくれるしライドは倒れてくるし(笑)でも、ドロドロとなにかに入り込んでいくようなあの感覚。ミュージシャンとしてのアピールはゼロな演奏ですが、あれが自分であると言わざるを得ない(笑)実は自分が一番やりたいことはあの中にあるんだなと気がつかされるくらいでもあります。

3)トラック1のコラージュ

 ドラムって楽しい〜!ってやつ。そういうことでいいんじゃないのかって思えた時期が、CDの締切前で本当に良かった。あんなに文字ばかりの本でありながらトラック1を聞くと「ドラムってたのしいっすよね」ですから。クドクド言っている、その内側にあるものがなんなのか、それを感じてもらうひとつのヒントになればよいなと思うばかりです。このコラージュについても、やはり人と対面したことで出来てきたものなので、それはやはり良いことだなと。

 ま、すべて「縁」ということでしょうか。そこになんらかのフィルターがあるのかもしれませんね。それを通ったものだったから、ベクトルが揃っていたということなのでしょうか。その辺は確信犯なわけでしょう(笑)?>Sさん